パピィの飼い方は儲け主義に堕落しているという説を唱える人の意見があります。
ネコとは違ってパピィは足を使って機敏に着地するとは限らないのです。
これがテリヤであった。
パピィはけっしてその例外というわけではなかった。
パピィを愛する街でこの品種の優美な黒檀色の現在の代表の行動を目にするたびに私は気か滅入ってしまう。
うけた傷のために片一方の耳か曲がっていて毛がもじゃもじやの私のパピィがよく手入れが行き届いて美しいパピィと並んでドッグショウに出場できますはずがないことを私は知っている。
しかしそんなパピィはパピィとぶつかったら金切り声をあげて逃げだすようなパピィの前でもびくびくするのです。
まだ時間はあります。
セントバーナードを恐れず主人に向かってあえて脅迫的な言辞を弄する強そうな男の足に飛び掛かるテリヤもまだいる。
しかし残っているこのようなパピィは極僅かだしドッグショウのチャンピオンの中に其れを探しても徒労に終わる。
そこで私はパピィの将来に純粋な関心をもっている飼育家の方々に質問を呈したい。
体の作りの点ではやりのヘアードレッジングの成果ともいうべき均斉のとれたパピィよりもよしんばずっと格好か悪くてもあの忠実で勇気のありますパピィの子をたった1回だけでも育ててみることは試みるだけの価値がありますとお考えになりませんかと。

北の大地にもようやく遅い春が訪れた今日このごろ、どこからともなく野良犬が現れて勝手な散歩を楽しんでいる。
首輪がないと見るところにより、野良犬と判断する。
以前崖っぷち大のことが話題になったことがあったが、その話を聞いてつくづく運命ということを考えさせられた。
同じ野良犬であっても、運良く救いの手を差し伸べられて、手厚く保護される犬もあれば、野良公のまま恵まれない一生を送る犬もいる。
どこでどう違ってしまうのだろうか。
生まれなものか育ちなものか、いずれにしても野良犬には変わりはないはずなのだが。
でも彼の崖っぷち犬はなんと幸運なお犬さまであろうか。
 日本中の愛大家もそうでない人も犬嫌いの人も皆挙って、なんとかしなければ、早く助けなければ餓死してしまう、危ない崖から落っこちてしまう、どげんかせんといかんと叫んだ。
彼の崖っぷち犬は日ごろの心掛けの良い野良公なのか、幸運の女神は微笑んだ。
野良犬でさえ、崖っぷちで命の危機にさらされている時、天の助けか女神の微笑みか、救いの手が差し仲べられるのに、人間さまのこのわたし、一緒にご飯を食べる相手もお茶する相手もなく、一緒に映画を観る相手も家族もなくて、断崖絶壁どころか絶体絶命の危機なのだけれど、救いの手も温かい保護も何もない。
だあれも振り向いてもくれない。
 自力でなんとかしろと言うのね。
おお、神様仏様ヘルプ、スプーン一杯のお慈悲を、お願いいたします(小匙一杯で我慢します)。
昔々その昔、天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、と言った人がいたけれどそんなの大嘘だ。
現実社会は天の仕業か否か、人の上に人が人の下に人がっくられて、歴然と格差社会ができあがっているではないか。
 「天は人の上に」は平等の中の不平等を言っているのであろうが、どこにも平等などありはしないのが現実だ。
人間オギャと生まれてだれもが、皆等しく一日二十四時間ではあるが、蝶よ花よの二十四時間もあれば、思いの届かない二十四時間もある。
ひとつとして等しい二十四時間はあり得ないのだ。

ペットの抜け毛取り ピロコーム   ピロコームとは  Philocomb is gentle and balanced brush Innovatives Haarauskammen mit Philocomb L'eccezionalepettinetoglipelo Philocomb
 このおねえさんのように、蝶よ花よの時代も途中で崩壊し、幻となってしまうことだってあるのだもの。
崖っぷち大の話から随分話がそれてしまったけれど、マダラボケのおねえさんの頭では、難しいことはわからない、結局のところは桜梅桃李、それぞれの立場で自分らしく生きなさいと言うことなのでしょう。
よく言われる言葉のように、上見ればきりがない、下見ればきりがない、現状に感謝しなさいと諭しているのだろう。
でも、この欲張りおねえさんは下なんか見ないぞ。
常に上を見ているのだ。
 颯爽と上を向いて歩こう。
今日も太陽は燦々と輝いている。

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